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2008,04,16, Wednesday
後期高齢者医療制度は年金から、保険料が自動引き落とされるため、年金を引き出して、はじめてその額におどろいた、という人がいる。保険料があがる人、さがる人、平均すれば下がるというのが、厚労省の言い分だが、ほんとなの?とても、疑わしい。自動的に徴収される保険料の多寡は無論、とても大事な問題ではあるし、
これはこれで、とても切実な問題ではあるのだが、さらに根本的な問題点が何も議論されていないことに私は恐ろしさを感じている。 根本的な問題点は75歳を境に、医療の質をおとせ、と医療者側に暗に示唆していることなのだ、と私はおもう。<本人の望まない延命を医療者にさせないで、畳の上で臨終を迎えてもらうことが、良いだろう>と厚労省の副政務次官が言っていた。<臨終をむかえる人の最後の1か月に100万円も、かかる。>とも。 誰もあちこちに、管をつけて希望のない日々を生き続けたい、とは思わない。ましてや、他者に疎んじられてまでは。けれど、75歳を線引きして、助けられる人まで、質をおとせ、手厚い医療は必要ないといっているのだ。命に年齢の線引きがあっていいものだろうか? 私たちは病院で最後を迎えることの問題点に気づき、出来るだけ、本人が希望する場での臨終を支えたいと、在宅治療にも取り組んできた。治療が及ばなくなってしまい看護しか出来なくなった状態では、自宅での日々が望ましいと、考えていたからである。死を病院に囲い込むのではなく、家族にもどすことが、残される家族にも意味があると考えたからでもある。 だがしかし、現実は思ったより、はるかに厳しいものであり続ける。在宅での最後の日々を支える主役は家族。しかし、24時間介護、看護が出来るほどの、余裕をもつ家族は稀になっている。在宅での死を望んでも、叶えられる人はそれほど多くはない。 こんな状況で、在宅での看取りを制度が誘導するのはおかしい。経済性だけから組み立てられていると勘ぐりたくなる。死はだれにもやってくる。自分の死の在りようを考えておくことは大切であるが、必ずしも、自己の家族の状況は確実なものではありはしない。確かなことであってほしいのは、命を尊厳あるものとして、見守る仕組みである。制度だけで足りるとは思わないが、最低限の仕組みとして、医療保険はあるべきだ。命に年齢で差をつけることだけは止めるべきだと私はおもう。 今、私たちはどのような社会で生きたいのか、よく考えてみなければならない。 快適な生活、便利な生活。生産と消費に駆り立てられる生活。すこし不便でも、もう少し心に余裕、安心のある生活を私は望むのだが、はて、これは少数意見なのかしら。 後期高齢者医療制度について、料金、徴収方法だけでなく、その中身と、そこに盛り込まれた命への考え、つまりは、哲学を問い、議論していただきたい。政治家はもちろん、いつか、その日を迎える各人に。
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| コラム | 11:14 PM | comments (x) | trackback (x) | |

