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2008,05,07, Wednesday
ねこ好きの人達はおおよそ、ねこが人の言葉を充分に理解していると思っているらしい。
ポール・ギャリコの<猫語の教科書>は猫がタイプーを使って書いたとされているし、米原マリは次のような例をあげている。猫きらいの母親が<ねこはすかないけれど、うちの猫はねずみをとりますから>と誰かに話していたが、その30分後には母の机の上にネズミの屍骸ひとつ。この時、はっきり猫が言葉を理解しているのがわかった、と。 我が家には3匹の猫がいる。このうちの最長老はアトラ。12歳になる。アトランタ、シドニー、アテネを経てついに北京で12歳となった。シドニー五輪の頃は3回の出産を経てもなお若く、単語のみならずセンテンスも理解している様子だった。生まれた子猫の貰い先を云々していたら、子猫をかくそうとしたことからも推測できる。それ以来、彼女は子猫を生むと、目が開く頃になるとすぐ、咥えてはどこかに隠そうとするようになってしまった。シドニーの頃はセンテンスのみならず、人の心理まで見透かすようになり、アテネの頃は人の無意識まで影響を及ぼすテクニックを身につけていた。そして今や、人を自由にあやつるかのようで、犯し難い威厳をもって人を睥睨している。 猫の一年は人の7年にあたる、なんてモノの本には書いてあるがほんとかしら。 アトラの12年は実になにかしら中身がこいようだ。 それにしても、北京五輪はどうなるのだろう。 環境汚染、食の不安、人権問題。そのうえ、反日感情。どれをとっても、北京に行きたいとは、思えないのだが、五輪がそもそも、すこし色あせて見える。スポーツを観るのは好きだけど、国の威信を賭けてといわれると退いてしまう。 アトラはその息子と孫にたいしても、実に威厳をもって対してはいるが、決して威圧的ではない。庇うべき時には身の危険をかえりみず、庇うけれど、それ以外はただ見守っている。いまや、智者の風格をそなえている。猫の12年はおおいに猫を利口にするのだけれど、わが身といえば、なんの進歩も智慧もない12年だったように思う。その上、かなしいことに五輪をめぐって考えてみても、ベルリン五輪と同じ類の胡散臭さがただよっていて、人間の智慧の蓄積は感じられない。 <なさけないよ、アトちゃん> <なにをいまさら、そんなもんでしょう、人間なんて> あまり、ねこに興味のない我がパートナーさえ、<アトちゃんのしっぽは2、3本に分かれてないか>なんて言っている。たぶん、最も彼女に軽蔑のまなざしをうけているのはその人なんだけど。 そんなこんなで、猫たちをながめて、連休はゴロゴロしてすごした。味わい深いのはアトらだけれど、眺めるだけなら、アトラの孫ねこ、トリノ・モコモコ・ド・バーコード。ほんとに、可愛いです。そろそろ、単語はわかり始めてはいますが、文章はまだかな。この子はとにかく、まったく天真爛漫! お見せしましょう、、どうぞ、みて、観て! ![]()
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| コラム | 12:30 AM | comments (x) | trackback (x) | |


